円覚寺獄門事件

 

かなりドキッとするタイトルですが、筑豊地方の昔話集などにも載っている出来事で、円覚寺の歴史にも深く関わる物語です。

ここでは昭和48年11月28日の朝日新聞に掲載された記事を紹介いたします。

 

 

獄門事件 

 

 

 鞍手町八尋の円覚寺は最初、同町新北に、足利氏の家臣から僧になった順正により開山したのだが、それから約三十年後の天正年間に、順正は現在地にあらためて開山することになった。これについて、次の物語が伝えられている。

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 当時、新北村は植木の庄に属し、深玄という代官が庄を支配していた。新北の村長は田代兵庫といい、子どもに十郎と善右衛門の兄弟があった。この村には丹治壱岐という長者がいて、庄の代官に取り入り、次第に勢力を伸ばして、村の半分を支配しようとねらっていた。

 たまたま毎年の行事として、代官に村々より踊りを供覧することになった。田代方も丹治方も華美を競って、代官所のある植木(現在の直方市)の里に繰り込んだ。

 この踊りくらべは近村の評判で、大ぜいの見物人が押し寄せた。

 いざ踊りが始まると、田代十郎の美男と抜群の踊りの見事さに、丹治の方の踊りは顔色がなかった。踊りは両方が交代でやることになっていたが、見物人があまりほめそやすので、調子に乗って、十郎は二番続けて踊ってしまった。これを見た丹治は、踊りの取り決めを破るとは言語道断と、大いに怒って、席をけって帰ってしまった。

 それから丹治は代官に、田代方の悪口を訴え続けた。丹治の口車に乗せられた代官は、田代方に、新北村を両分して一方を丹治に支配させる、と命令した。当然、田代方は承知しなかった。そこで、代官は十郎を呼び寄せると、踊りの取り決めを破ったことを理由に十郎の首を切って、丹治の屋敷の河原に高い台を作って、さらし首にした。

 これを見た円覚寺の順正はふびんに思って、代官に、十郎の首をもらい受け、葬ってやりたいと願い出たが、代官が承知するはずはなかった。やむをえず、順正は夜更けに獄門台によじのぼって首を盗むと、ねんごろに葬った。

 それを知った代官は腹を立て、順正を追放するとともに円覚寺を壊してしまった。八尋の里の日高右馬之助という長者が順正をかくまって、小さな庵(あん)を建てて住まわせた。これが現在地の円覚寺になったといわれている。

 そして三年後、十郎の弟善右衛門は苦心の末、兄の敵丹治を討ち取って小倉に逃げのびた、という後日談も残っている。

(直方市植木永田)

 

 

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