2007(平成19)年7月

仏は濁れる世に、

信じ難(がた)き法(おしえ)をお説きになる

 

[法話]

 

 今月の言葉のもとになった『阿弥陀経』のご文に相当する現代語訳を見ると、次のようになっています。

 

 釈迦牟尼仏は、世にもまれな難しく尊い行を成しとげられた。娑婆世界はさまざまな濁りに満ちていて、汚れきった時代の中、思想は乱れ、煩悩は激しくさかんであり、人々は悪事を犯すばかりで、その寿命はしだいに短くなる。そのような中にありながら、この上ないさとりを開いて、人々のためにすべての世に超えすぐれた信じがたいほどの尊い教えをお説きになったことである。

(『浄土三部経(現代語版)』229頁)

 このご文で釈迦牟尼仏すなわちお釈迦さまが成しとげられた「尊い行」といわれるのは、阿弥陀さまの名号すなわち南無阿弥陀仏による救いをお説きになったことです。しかもそれがこの「汚れきった時代の中、思想は乱れ、煩悩は激しくさかんであり、人々は悪事を犯すばかりで、その寿命はしだいに短くなる」、というような五つの濁りに満ちた世の中において成しとげられたことが尊いといわれているのです。みずから発心して仏道を歩みたいと願い、その願いを成就するために強い意志と努力をもってつとめはげむような人が相手ならお釈迦さまも楽でしょうが、事実はまったく逆で、お釈迦さまが南無阿弥陀仏の名号による救いをお説きになった相手といえば、この濁れる世の人々つまり私たちだったというのです。

 

また、そういう私たちだからこそ、ただ阿弥陀仏の名を聞き、その名を口にするだけで救われるという教えをお釈迦さまはお説きにならなければならなかったのでしょう。それがここでは「信じがたいほどの尊い法」といわれているのです。もちろん、ここで「信じがたい」というのは、世間一般でいうような「荒唐無稽な」という意味ではありません。「濁れる世」に生きるこの私たち、すなわち煩悩を満足させることだけを幸せだと思いこんでいるような私たちを、ただ南無阿弥陀仏ひとつでさとりの世界にみちびくというその教えが「信じがたい」ほどの尊い法だと言われているのです。

 

『歎異抄』に遺された親鸞聖人の言葉、すなわち「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなき」(『浄土真宗聖典(註釈版)』853〜854頁)とは、自分は正しいけれども、悪いのはすべて他人である、あるいは世の中であるというような意味では決してないように思われます。これは聖人が自らに即して語られた言葉であって、そういう自分に念仏となってはたらきつづけてやまない阿弥陀さまの大悲だからこそ、「ただ念仏のみぞまことにておはします」とおっしゃったのにちがいありません。

 

 

徳永道雄(とくなが・みちお)

1941年生まれ。

京都女子大学文学部教授、本願寺派宗学院講師、

浄土真宗教学伝道研究センター顧問、

本願寺派勧学、大阪府正福寺住職。

 

本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載

  

 ▲このページのトップへ

 閉じる