2007(平成19)年8月

信は悟りのもとであり、功徳を生む母である

 

[法話]

 

  数年前のことですが、夜の十時ごろ、ある女性の突然の訪問を受けたことがありました。青白い顔をしてかなり深刻な様子でした。

 

 ご主人も前からの知り合いで、二人は結婚して一年あまりという親しい関係でしたから、何かがあれば訪ねてくる可能性はあったのですが、あまりの唐突さに驚いたのは事実です。

 

 事情を聞いてみると、激しい口争いの末の売り言葉に買い言葉というのでしょうか、ご主人に「死んでしまったら」と言われ、あまりにも腹が立ってそのまま家出し、十何時間かその辺をうろついていたというのです。「死ね」と言われても死ぬことはできない。本気でそんなこと言っているとも思えない。だからといって、どうしていいのか、どう考えればいいのかわからない。まったく行き詰まった状態なので、助けてほしいというようなことだったかと思います。

 

 そんなことで、二、三時間、真剣に話し合ったことは憶(おぼ)えているのですが、その時の詳しいやり取りなどは、すっかり忘れてしまって、何も残っておりません。ただ最後に、彼女が、思いもかけないことを確信したというのか、「ヒェー」という奇声を発したのです。

 

 夫のいうことは間違っている。私の辛いところは何もわかってくれない等々、ああとも思い、こうとも言える。いろいろと言いつのる彼女の言い分を十分に認めたうえで、「そのように主張して止まない貴女(あなた)の疑いようもない事実は何なのか。考えたこととか、予想されることなどではなく、゛これだけは間違いない゛という、その事実を確かめてみてはどうか」と。それが果たしてヒントになるのかどうかの予測もつかないままに話し相手になっていた、そのことの結果が、先ほどの奇声でした。

 

 彼女はそれまでに、仏教にも真宗にも特別にご縁があったという人ではありません。また育った環境も特に波風があったわけではありません。でも、「真宗」に出遇(あ)えるご縁のある時には出遇えるのです。

 

 「信」とは「こころが澄むことである」と言われたり、「勝(すぐ)れた理解を生む深いこころである」と定義されたりします。ですから、私たちが日常的に用いている占いを「信ずる」とか、理由もわからないのに無理に信ずるというような「信」とはまったく違います。それが「悟りのもと」、道(菩提(ぼだい))の元としての「信」です。

 

「信」は、うたがいなきこころなり。

すなわちこれ真実の信心なり。

虚仮(こけ)はなれたるこころなり。

(『唯信鈔文意(ゆいしんしょうもんい)』・『真宗聖典』547頁)

と親鸞聖人(しんらんしょうにん)は述べています。一点のすき間もない虚仮をはなれた確信が、こころの底からの了解というような「如来」の「悟り」の「智慧」に通じているのでしょう。

 

 事実は否定できないという澄んだこころは、それが自分にとってもっとも認めたくないことであっても、素直に納得できるのです。そして「功徳(くどく)を生む母」に譬(たと)えられて、不思議な豊かさを与えてくれるのです。

 

 明るく安堵(あんど)したような様子で、夜中に、「自宅に帰ります」と言った時の彼女の顔を忘れることはできません。そしてその後で「状況は何一つ変わっていません」と言うご両人の本音の入った口争いの連続と、「まったく変わってしまった」ところが「一つ」だけあるという二人からの報告を、こころから嬉しく聞いたことでした。

 

 

鍵主 良敬(かぎぬし・りょうけい)

1933年生まれ。京都市在住。

北海道教区聖光寺住職。大谷大学名誉教授。

 

東本願寺出版部(大谷派)発行『今日のことば』より転載

 

 

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