宗祖(開祖) 親鸞聖人とは・・・

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 浄土真宗を開かれたのは親鸞聖人であります。

 しかし開祖といっても、自分でひとつの宗旨を開こうなどという意志をもって教えをひろめられたものではなくて、あくまでも、みずから如来の本願を信じ、そのお慈悲を生きるひとりの行者として、また恩師源空上人を慈父のように慕い、そのよき弟子として終始されたことは、「本師源空あらはれて浄土真宗をひらきつつ」とうたわれた『和讃』のうえにもあきらかにうかがわれます。

 また「浄土真宗」ということばにしても、ただ単にひとつの宗派をあらわす宗名としてではなくて、よき師である源空上人からうけたまわった、真実の教えをあらわされたものにほかなりません。

人間というものは、すこしでも人からほめられると、とかく思いあがるものであり、まして人の師と仰がれるようにでもなれば、弟子の数を一人でも多くかぞえたい名利欲や、〃わが弟子である〃という執われ心がおこりがちなものであります。

 ところが聖人は、立派な弟子がたくさんあったにもかかわらず、「親鸞は弟子一人ももたず候ふ」(歎異抄)といい、「なにごとををしへて弟子というべきぞや。みな如来の御弟子なればみなともに同行なり」(口伝鈔)ともいっておられます。

 そして自分自身では、真宗の正しいみ教えは、七人の高僧がたが受け伝えてくださったたまものであると高く仰いで、「七高僧はねんごろにも釈迦のみこころあらわして、弥陀の誓いの正機をば、われらにありとあかします」とたたえ、「このみさとしを信ずべし」(しんじんのうた)という姿勢を生涯つらぬいていかれました。

 そのように執われのない謙虚な人柄は、かえって多くの人びとの信望と尊敬とをあつめ、「同一に念仏して別の道なきがゆえに、遠く通ずるに、それ四海の内みなきょうだいとするなり」(往生論註)というように、ひとつの教団が自然にかたちづくられ、それが今では「浄土真宗」という一大教団にまで発展してきたのであります。

 そしてその「ご開山さま」として七百余年このかた、幾千万の人びとから敬い慕われている人こそわが親鸞聖人であり、このことは浄土真宗という教団を知るうえで、きわめて重要なことであるといえましょう。

(「浄土真宗 必携」より)

 

親鸞聖人 略年表

年 号

西 暦

年 齢

事 項

承安三

1173

1

日野有範の子として誕生。

養和元

1181

9

出家得度 範宴と号する。

建仁元

1201

29

比叡山下山。

元久二

1205

33

六角堂参籠の後、法然門下に帰入。 法然著『選択本願念仏集』の書写を許される。

承元元

1207

35

念仏停止(承元の法難)により越後に流罪。

建暦元

1211

39

流罪を赦免される。

健保二

1214

42

上野佐貫で『浄土三部経』の千部読誦発願。やがて中止して常陸へ赴く。 

元仁元

1224

52

『教行信証』草稿本成立。

寛喜二

 1230

58

『唯信鈔』書写。

寛喜三

1231

59

病臥。夢中に健保二年の『浄土三部経』の千部読誦の発願を想い、反省。(寛喜の内省)

貞永元

1232

60

この頃、京都に戻る。

宝治二

1248

76

『浄土和讃』『浄土高僧和讃』を著す。  

建長二

1250

78

『唯信鈔文意』を著す。 

建長四

1252

80

『浄土三経往生文類』『愚禿鈔』  『浄土文類聚鈔』『入出二門偈』を著す。 

建長七

1255

83

 『皇太子聖徳奉讃』を著す。 

康元元

1256

84

善鸞(息男)を義絶。

正嘉元

1257

85

『大日本粟散王聖徳太子奉讃』  『一念多念文意』を著す。  

正嘉二

1258

86

 『正像末和讃』を著す。 

文応元

1260

88

『正像末和讃』を補訂。

弘長二

1263

90

未刻、善法坊にて示寂。


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